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米沢村村歌の歌詞
米沢村歌の誕生と保存の経緯
昭和10年、米沢小学校校長、”五味元喜先生”は誰にも親しまれ歌われる米沢村村歌の作成を希望し、”五味太兵衛”村長に相談して了解を得ました。五味校長は恩師の井上武士先生(チューリップ・うみなどの作曲者)を介して作曲を山田耕筰に依頼し、その山田耕筰に作詞者として北原白秋を薦められ彼の仲介により引き受けていただくことになりました。 北原白秋は村内から広く募集した8名の歌詞と校舎の屋上から撮影した村内の写真を参考にして、昭和11年5月作詞作成に着手しました。同年10月には諏訪を訪れ(10がつ20日付けの信陽新聞に報道されています)、大清水等を視察し、塩壺の湯に入浴して米沢村の様子を実際に見聞きしています。そして、「仰げよ建御名方」で始まる歌詞が作られ、昭和11年12月山田耕筰作曲により出来上がりました。 村歌作成の経費は、青年学校生徒の手により村内から募金されました。また、村内4氏の寄付金により山葉ピアノが購入されました。昭和12年7月5日、村歌ならびにピアノの披露がコロンビア専属歌手”永岡志津子”及び演奏者2名により、米沢小学校講堂において盛大に行われました。 終戦まで小学校や村の行事には必ず歌われてきた米沢村歌であるが、戦後の米軍の進駐下において、戦前の教育制度を一掃し、教育の民主化を推進する目的で吹き荒れていたケリー旋風の波及をおそれた学校側は、歌詞の「仰げよ建御名方」と「神にささげ誠を」の文字がケリーの思想に反していることを危惧し、その存在を抹消せざるを得なかった。以後いっさい米沢村歌は歌われなくなってしまいました。 昭和54年頃、米沢小学校教諭”金子善邦氏”の手により、小学校の書庫の中から米沢村村歌の楽譜が発見された。その村歌が北原白秋作詞、山田耕筰作曲によるものであることがわかり、約35年経過して日の目を見ることになりました。その後、山田耕筰作詞台帳にも登録されていることが確認され、日本を代表する作詞、作曲者の組み合わせが一農村の村歌としては極めて異例であることから注目されました。 年号も平成に変わり、次第に村歌保存の気運が高まり、米沢地区コミュニティ推進会議により米沢村村歌の保存が決定されました。平成3年6月米沢小学校合唱団により収録された「米沢村村歌のカセットテープ」と「楽譜」が作成され村内各戸に配布されました。 |
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| 北原白秋が書いたという直筆のサイン |
米沢村村歌の楽譜

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